愛されている者として生きる

30代でイエスキリストを救い主と
信じて10数年。
永遠のいのちを頂き、
生きることの苦しみから解放され、
人生をラクに生きられるように
なりました
日常の暮らしの中で起こる
様々な出来事に生きて働き、
私を造り変え続けて下さっている
イエス様との日々の記録です

クリスチャンの最期

今日は、教会の友人のお母さんの

お見舞いに牧師夫妻と行ってきた


あと一週間と言われてもう二週間


痛みもなく、とても平安な様子だった


高齢になってから洗礼を受けたそうだが、

イエスキリストが守って下さってると

皆が感じることが出来た


牧師夫人の手をずっと握り、

牧師さんに祈られて、とても

嬉しそうだった


見ていてとても幸せな、平安な

時間だった


皆で、主我を愛す、の賛美歌を歌い、

お別れした


友人が、「お母さんがクリスチャンで

良かった、」と泣いていた


本当にそう思った


クリスチャンの最期は送る側も

送られる側もこんなにも

平安なのだ


このことを義父義妹、親族達、夫にも

伝えたかった


でも、かなわなかった


私の祈りと私の仕える姿勢が

足りなかったかな


そう思うとまた、涙が出て来る


私は足りない者だ

私の祈りと労は報われないと

思ってしまう


でも、精一杯やったのだ


だから、自分を責めたり、無力感に

打ちひしがれたりするのはやめよう


主は行いでなく、心を見て下さるから。


家族親族の救いは主に委ねよう


御心ならば、救われるだろう


主よ、私の家族、親族の救いを

御手に委ねます


あなたの御心が私の家族親族に

なりますように。


アーメン。

なおも神を待ち望む

今、私は深い失望の中にいるようだ


聖書には、

神に信頼する者は失望することがない


と書いてあるから、認めたくなかったけれど。


昨年秋、パートと言う、私の生活リズムを

崩してまで、始めたこと


介護の手伝い

弟の面倒

孫の世話


どれも思い通りに行かず、

それでも自分の思い通りでなく、

神様の思い願いに委ねようと思った


その直後、夫が突然亡くなった

信仰を持つことなく…


それでも、夫はきっと神様のもとに行けたと

信じ、神はこの事も益と変えて下さると信じ、

前を向くことが出来た


その後だ


義妹との不毛な口論

何年も何十年も前の事で執拗に責められる


介護をしない、しなかったと責められる


家賃もローンも払わず住まわせて

もらってるのに介護をしないと責められる


もう出て行くしかない



本当に疲れた



17年間ここに暮らして、最後が

これとは。



私の17年間は何だったのか。



そんな訳で、今、私は失望している。



でも、それでも私は神に信頼する



神を待ち望む




わたしのたましいは黙って、

ただ神を待ち望む


私の救いは神から来る


神こそわが岩、わが救い、わがやぐら


私は決して揺るがされない


詩篇62篇


わがたましいよ

なぜお前はうなだれているのか



私の前で思い乱れているのか



神を待ち望め

私はなおも神をほめたたえる



私の顔の救い、私の神を。

詩篇41篇

義父

94歳の義父


5年前、脳梗塞で倒れ、要介護状態と

なった


義妹がずっと遠方から週5日通いで来て

在宅で暮らしている


死ぬまで家にいたい


それが義父の願いだ


しかし、ひとり息子に先立たれ、

痛みを耐えながら、ベッドと車椅子を

何度も移動する最近の義父を見ていると

なんとも切ない


義妹は少しでも元気に

少しでも長くと必死に介護しているが、

これが本当に義父にとって幸せなのだろうか?


私には絶対ムリ


義父のような人生は送りたくない


義父は本当に幸せなのだろうか。