愛されている者として生きる

30代でイエスキリストを救い主と
信じて10数年。
永遠のいのちを頂き、
生きることの苦しみから解放され、
人生をラクに生きられるように
なりました
日常の暮らしの中で起こる
様々な出来事に生きて働き、
私を造り変え続けて下さっている
イエス様との日々の記録です

義妹と比べなくていい

私には8歳年上の義妹がいる

しっかりしていて良く気が利くし、

尊敬していた


子どもの年齢も近く、家族同士で旅行に

行ったことも何回かある

そこそこ仲が良かった


そんな関係が壊れたのは

同居の義母が認知症になってからだ

義母の面倒を誰が看るかで言い争うように

なった


私は同居の嫁として努力したつもりだ

しかし、限界を越え、うつ病になり、

一切手を引いた


そうしなければ死ぬしかなかった


義母は最後は施設で床ずれが出来、

あっと言う間に亡くなった


義妹はそのことをとても悔やんでいると

夫から聞いている


だから今度は後悔したくないと、父親の為に

遠方から通い介護をもう一年以上続けている


「自分はこんなにやっているのに、兄夫婦は

何もしない」


「同居しているくせに」

「家賃も払わず住まわせてもらってるくせに」


それが彼女の言い分だ


確かに一理あるだろう

私達も出来ることなら世話してあげたい


しかし出来ないからやらないのだ


彼女の存在、彼女が頑張れば頑張るほど、

私は責められている気分になりしんどかった


「義妹さんは責めても神様は責めていない」


いつもいつも、カウンセラーさんに言われたことだ


「神様は責めていない」


それだけを拠り所にこの家で暮らして来た


しかし、昨日、新たに気づいたことがある


それは、義父を巡る義妹と私の「動機」と

「目的」の違いだ


義妹の献身的介護の目的は、義父が最後まで我が家に住めること、満足した死を迎えられること、そして自分自身が後悔しないこと、だ


動機は、大変申し訳ないが、「自分の為」

「自己満足」であると思う


私が義父のそばにいるのは、キリストを伝える為だ


義父がキリストを救い主と受け入れ、永遠のいのちを手に入れ、死んでも生きることが出来るように、地上でも、むやみに死を恐れずに生きられるようになることを願っている


動機は「神」だ


義妹と私では、動機も目的も違うのだ


だから、同じ土俵で比べなくて良いのだと

気づかされた


どちらがいいとか悪いとか、言うつもりはない


年老いた親の為に出来得る限りのことをしたいと言う義妹の気持ちは理解出来るし、それが

出来る彼女を立派だとも羨ましいとも思う


でも、彼女と比べて、自分を責めたり、ストレスを感じなくてもいいのだと気づき、ラクに

なれた気がしている

×

非ログインユーザーとして返信する