愛されている者として生きる

30代でイエスキリストを救い主と
信じて10数年。
永遠のいのちを頂き、
生きることの苦しみから解放され、
人生をラクに生きられるように
なりました
日常の暮らしの中で起こる
様々な出来事に生きて働き、
私を造り変え続けて下さっている
イエス様との日々の記録です

不機嫌な人

いつも不機嫌…というタイプの人がいる


いつも何かに、誰かに怒っている感じの人


そう言う人を前にすると、私はとっても

緊張する


緊張して、ご機嫌を取ろうとする


ありのままの自分でいられなくなり、

可笑しなことをして、返ってその人の反発を

買う


惨めな気持ちになり、自己嫌悪に陥る


こんなコミュニケーションを貢ぎという


何故私は貢ぐのか?


正直、不機嫌な人は、私にとって、どうでも

いい人だ


大切にしたい人にそういうタイプの人はいない


だから、嫌われても、疎遠になっても、どうでもいいのに、それでも、私は貢ぐ


その人のご機嫌を取ろうと、一生懸命になる


何故?


貢ぐ時、私は何を考えているのだろう?


貢ぐ時、私は、目の前の人の不機嫌は、

自分の責任だと考える


その人の不機嫌を解消するのが、私の任務だと

考える


何故そう考えるのか?


幼い頃、私の母はいつも哀しそうだった


不機嫌ではなかったが、いつも苦しみに耐えていた


そんな母を守ること、励ますことが、

私の任務、だった


だから、多分今も、哀しそうな人、困っている

人、不機嫌な人、を目の前にすると、

私が何とかしなければ、と

スイッチが入ってしまうのだろう


でも、それは間違っている


感情や考え、選択するのは本人だ


不機嫌な人は、自分でそれを選んでいるのだ


だから、私には変えてあげられないし、

変える必要もない


私は、私のままで、その人の前にいればいい


神に愛されている者として、

神の愛のバリアーに守って頂いて、

その人の前にいればいい


貢がなくていい

嫌われてもいい


不機嫌な人を前にした時は、

神の愛が

私を守って下さっていることを

思い出そう


導いてください

アーメン。

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