なにもまちがっていない
昨日私は、今までそしてこれからの
苦しみを思い、死にたいとここに書いた
私にとって「苦しみ」とは、
努力が報われないことだ
願った通りにならないことだ
あんなに頑張ったのに、努力したのに、
報われなかった、この先もきっとそうだろう
もう生きていても意味がない、
死んだほうがましだ、となる
そこにあるのは、
「努力が報われてこそ生きてる価値がある」
という、私の世界観だ
でもそうじゃない
努力が報われても報われなくても
私の存在価値は変わらない
<高価で尊い。愛している>と
私を造られた方が断言してくださっている
努力が報われたかどうかは問題ではないのだ
そう思うと私の人生に対する評価は
180度転換する
私の50年の人生は自分の為、家族の為、
誰かの為に、一生懸命に考え、努力してきた
尊い人生だ
それは神様が私に与えて下さったたまものだ
私は自分のたまものを生かし、一生懸命
生きてきたのだ
神様はそんな私をきっと喜んで下さっている!
「なにもまちがっていない、よくやっている」
カウンセラーさんによく言われる言葉だ
そうだ
なにもまちがっていない
私は今までよくやってきたし、
これからもそれを続けていけばいい
<私の存在そのものに価値がある>
<私は愛されている>
という、”真理’を土台にしてー