愛されている者として生きる

30代でイエスキリストを救い主と
信じて10数年。
永遠のいのちを頂き、
生きることの苦しみから解放され、
人生をラクに生きられるように
なりました
日常の暮らしの中で起こる
様々な出来事に生きて働き、
私を造り変え続けて下さっている
イエス様との日々の記録です

なにもまちがっていない

昨日私は、今までそしてこれからの
苦しみを思い、死にたいとここに書いた


私にとって「苦しみ」とは、
努力が報われないことだ


願った通りにならないことだ


あんなに頑張ったのに、努力したのに、
報われなかった、この先もきっとそうだろう
もう生きていても意味がない、
死んだほうがましだ、となる


そこにあるのは、
「努力が報われてこそ生きてる価値がある」
という、私の世界観だ


でもそうじゃない


努力が報われても報われなくても
私の存在価値は変わらない


<高価で尊い。愛している>と
私を造られた方が断言してくださっている


努力が報われたかどうかは問題ではないのだ


そう思うと私の人生に対する評価は
180度転換する


私の50年の人生は自分の為、家族の為、
誰かの為に、一生懸命に考え、努力してきた
尊い人生だ


それは神様が私に与えて下さったたまものだ


私は自分のたまものを生かし、一生懸命
生きてきたのだ


神様はそんな私をきっと喜んで下さっている!


「なにもまちがっていない、よくやっている」


カウンセラーさんによく言われる言葉だ


そうだ


なにもまちがっていない


私は今までよくやってきたし、
これからもそれを続けていけばいい


<私の存在そのものに価値がある>
<私は愛されている>
という、”真理’を土台にしてー

×

非ログインユーザーとして返信する