愛されている者として生きる

30代でイエスキリストを救い主と
信じて10数年。
永遠のいのちを頂き、
生きることの苦しみから解放され、
人生をラクに生きられるように
なりました
日常の暮らしの中で起こる
様々な出来事に生きて働き、
私を造り変え続けて下さっている
イエス様との日々の記録です

キリスト者として一番嬉しいこと

私が所属する教会では、毎年、牧師さんが

神様から示されたテーマをもとに

一年の礼拝メッセージが伝えられる


今年のテーマは<収穫の時を迎える為の私たちの応答>


そして今週の礼拝メッセージは


<結ばれる収穫の実を決めるものは何か?>だった


結論は、<収穫の実を決めるものは、どんな種を蒔くか、

誰が治めているか>だった


私にとっての収穫は、家族がキリストを信じるように

なること、また、以前の私のように子育てやうつで

苦しんでいる人や

子ども時代の私のように親から十分な愛情を受けられず、

苦しむ子どもたちにキリストを伝えることだ


そのために、自然豊かで食べ物が美味しくて

人も温かい土地を後にして、義父母と同居を始めた


10年以上お世話になった教会を移った


でも、義母は信仰を持つ前に召されてしまった

義父もかたくなだ

夫も、二人の息子も、信仰を持つには至っていない


私がしてもらったような、家庭集会がしたいけど

まともに歩くことさえできなくなり、

自身の生活さえおぼつかない


そのことでずっと不満があった


こんなにしているのに、こんなに努力しているのに

何故、神様は私の願いを聴いて下さらないの?

かえって私を苦しめることばかりが起きるの?


神様は意地悪だ

神様は私の願いを聴いて下さらない


やっぱり私の人生には意味がない

生きていても仕方ない


長い間、そう思っていた

それが自分中心の世界観だと気づいたのは

最近のことだ


今は、同居を始めたことも、教会を移ったことも

すべて神様が喜んで下さる選択だったと確信している


うつになったことも、怪我をして、なかなか回復しないことも

神様は、益に変えて下さり、たくさんの気づきが与えられている

から、良かったとさえ思える


イヤで仕方なかった炊事洗濯も、今住んでいる家も、

信仰により与えられた聖なるキッチンで神様から委ねられた

働きをしていると受け取り直し、モチベーションが上がった


それなのに、一昨日は次男にぶち切れてしまった


いつの間にか、また、人からの報いを求める自分中心の

世界観に戻ってしまっていた


思うに、日々の暮らしの中で、神中心の世界観を取るか

自分中心か、分岐点がたくさんあり、自分中心の世界観

コースの方が、道が広く、選びやすく、行きやすいのだろう


しかしその道のゴールはみじめな敗北だ


だから聖書は

<力の限り見張って、あなたの心を見守れ

 いのちの泉はこれからわく   箴言4-23>

と教えているのだろう


日々、一瞬一瞬、神様の世界観コースを選び取り、

地道にコツコツ、自分の中に神様中心という種まきを

していきたいと思う


ゴールにはきっと、素晴らしい収穫が待っていると

信じてー


そしてその収穫を目の前にした時、私は「自分の

力で、自分の努力で、成し遂げた」とは思わないだろう


神様が、キリストが、私の主が、こんなに素晴らしいことを

私にしてくださった、と感謝するだろう


キリスト者としてこれほど嬉しいことはないに違いない




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